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「神が授けた素質、走る姿は天使」ジャマイカの至宝、アサファ・パウエル

01年までサッカーに熱中、陸上競技にはそれほど興味をもてなかった少年が、わずか4年間で「世界最速男」に成長した。アサファ・パウエル(ジャマイカ、24歳)は、いま世界陸上界で最も熱い注目を浴びるスプリンターだ。05年アテネ五輪競技場で9秒77の世界新記録を樹立。今季も天井知らずの伸び盛り。9秒77を2回、史上初の1シーズンサブ「10」を12回記録した高速スプリンターだ。

ジャマイカは半世紀前から、世界的な名スプリンターを輩出してきた。自らをスプリンター「工場」と呼んでいるが、意外にも、純粋なスプリンター100mに弱い。また、多くのジャマイカ生まれの選手が素質を伸ばしたのは移住先の国だ。これまで才能を育てる環境、自信、チャンスがジャマイカ国内では乏しかった。しかし、今季の男女100m世界ランキング1位は、ジャマイカの同クラブ選手が独占した。生粋のジャマイカ育ちのパウエルが、この国特有の「芝生トラック」で、ジャマイカコーチ、スティーブ・フランシスのコーチの元に、ティム・モントゴメリー(米国)の世界記録を100分の1秒短縮した。ジャマイカ選手による「世界最速男」は、これまで島民250万人の悲願だった。ジャマイカ期待の『星』、パウエルが出場したアテネ五輪100mのレース日に、国民がTV前に釘付けにされ、この日だけは殺人事件が起こらなかったエピソードがある。世界記録保持者の重圧の掛った06年シーズン、まず、3月オーストラリアで開催された大英連邦大会で国外国際選手権初優勝、ゴールデンリーグ全勝、アスレティックファイナルで優勝、これまで無縁だったタイトルを手中に収め、16戦全勝で今シーズンを終えた。

10月半ば過ぎ、キングストンを訪れた。パウエルはキングストン工科大学で学業に戻りながら、大阪世界選手権に向けて充電期間中だ。パウエルは気負いもなく、条件さえ良ければ「9秒68」で走る自信があるとこともなげに言った。パウエルはサブ「10」を史上4人目の25回記録。フランキー・フレデリック、27回、アト・ボルドン、28回、モリース・グリーン52回に続く記録だ。

パウエルの家庭は敬虔なクリスチャン

この時期のジャマイカは、熱帯地域特有の高温多湿の気候で日陰でも汗が滲み出る。キングストンから内陸に向かうと、道路は幅が狭く、整備の悪いアスファルトの道路が山に入る。運ちゃんはラジオから流れるレゲエをガンガン鳴らして、恐ろしいほど車を飛ばす。しばらく走ると、目に映る景色、道路わきに見える家、歩いている人、物売りなど、どこかシエラレオネ、ライベリア、コートジボアール、ナイジェリアなど、西アフリカのジャングル地帯特有の印象、雰囲気を彷彿させる。都会と村の貧富の差は、想像以上に大きい。4年前、ジャマイカのジャーナリスト、ジミー・カーネギーがジャマイカの強さの秘密を「1838年奴隷制度が廃止され、西アフリカから強制連行されてきた奴隷が、アフリカ人の能力がそのままオリジナルに似た環境で生存、継承されて自然に鍛えられた」と、語ったことを思い出した。

ジャマイカは平坦な土地は少なく、丘ばかりで起伏が激しく、地理的な環境はかつて隈なく旅した西アフリカと類似している。パウエルも子供のころから自然と足腰が鍛えられてきたのだろう。西アフリカの奴隷祖先が、海を隔てたカリブ海の諸島で天性のスプリンターの質素を開花させて世界を独占しつつある。これと対照的な東アフリカは高地の地理的条件の特色を生かして、長距離選手が強く世界を圧巻している事実と比較すると興味深い。

この日は日曜日だった。

パウエルは合宿所からキングストンでもビバリーヒルと呼ばれる市を一望できる高級住宅地にある家を購入した。ここから時間の許す限り、日曜日は両親の住むセント・キャサリン教区の山の中、首都から約1時間半のリンステッド村へ「9・77WR」のナンバープレートを装備した真っ白なメルセデスベンツを駆って里帰りする。パウエルのマネージャー、ポール・ドイルは「パウエルは走ることと、車の運転だけはスピーディーだが、それ以外はすべて恐ろしくスローな男だ。」と、笑って言う。父親のウイリアムス(60歳)、母親のシスリン(55歳)ともにキリスト教団(The Redemption Natonal Church of God)の牧師だ。アサファは6人兄弟の末っ子。樹木に隠れて村の全容が掴めないが、教会は道路脇の傾斜の土地にある。パウエルは日曜日に行われる礼拝にベースギター、兄のナイジェルの弾くキーボードでゴスペルを演奏する。パウエルは「物心がついてから教会で演奏していた」と言うように、パウエル一家の生活は信仰を中心に家族の絆が深い。教会周辺を散歩しながら写真を撮っていると、若い男が「金くれ」と物乞いしたようすもアフリカ的だ。肩をすぼめると、真っ白な歯を見せてニコッと笑った。時間になると着飾った村民が礼拝にやってくる。その数は大人子供を含めた50人ぐらいだろうか。単調な村の日常生活の中で、週一度の教会の集まりは華やかで楽しそうだ。パウエル一家も3台の車を教会前に乗り付けてきた。アサファは父親と一緒だった。この宗派を詳しく知る由もないが、教会内はトタン屋根裏が丸出しの天井、十字架も祭壇もない簡素な内装作りだ。壇上の隅に女性コーラスグループ、奥のほうに左右に分かれてアサファの両親が着席。アサファ、ナイジェル兄弟とドラマーの演奏と共に、一人の女性が口上を述べて始まった。やがて母親シスリンが大きなゼスチャーでスピーチ。母親の奨めでシャイなアサファがゴスペルを謡う。後にアサファは「まさか、母親がゴスペルを歌えというとは思わなかったが、公共の場で母親に逆らうことはできなかった」と苦笑した。暑いところだ。教会内でも汗びっしょり。続いて、参列者が手拍子、数人の黒衣の若い女性が優雅にゴスペルにのって踊る。父親がアサファを礼讃、日曜礼拝が終わった。

簡単に父親ウイリアムスの言葉を引用しよう。

「アサファは神から授けられた才能、神のお加護で世界最速スプリンターになった。」(ウイリアム牧師が「ハレルヤ!」と叫ぶたび、参列者が復唱する。)
「神のお加護なくして、アサファの夢は成就しなかった。」(ハレルヤ!)
「2年前、アサファが膝の故障で苦悩していた時、わたしは神にお祈りを捧げた。」(ハレルヤ!)
「神は見捨てなかった。(ハレルヤ!)
「アサファの走る姿は天使のようだ。」「ハレルヤ!」
「神のお加護を!」「ハレルヤ!」

アサファはギターを抱えながら、両親の言葉を瞬きもせずに真剣に聞き入っていたのが印象的だった。礼拝終了と共にしばし参列者と家族的な雰囲気で語らう。また、近所の子供のころからの遊び友達とも再会を楽しんでいた。

「アサファ」の意味はアフリカ原語で「見事に難局に対処してゆく」(rising to the occasiom)と言う意味らしい。

教会から徒歩で10分ぐらい坂を下りると、アサファの両親の家がある。以下はここで話したものとキングストン取材をまとめたものだ。

競技を続けることは、悲劇から家族が立ち直ることだった

−リンステッドで両親が牧師の家庭に育ったのですね。
パウエル−そうです。物心がつくころから良きクリスチャンになる聖書の教え、厳格なしつけで育ちました。ダンスや見世物に行くことはもってのほかでしたが、スポーツは大好きな家族です。

−最初に興味を示したスポーツはなんですか?
パウエル−サッカー!ポジションはFW。ぼくはマンチェスターUの大ファンだよ。ワールドカップは楽しかったね。

−陸上競技に興味を持ち出したのはいつごろからですか?
パウエル−シドニー五輪で優勝したモリース・グリーンをTVで見たころかな?格好よかった!彼のように成りたかったし、やる以上は世界の頂点を目指したかった。

−こどものころから早かった?
−確かにぼくは早かった。年上の人と競争しても100から400mまでなら負けなかった。チャーレモント高の学生だったころ、エライン・フレイザー先生がスプリンターの素質があるといって陸上競技を薦めてくれたが、あのころはサッカーに夢中だった。兄ドノバン(99年室内世界選手権60m6位。100m97年世界選手権準々決勝、シドニー五輪4x100mリレー要因、最高記録60m、6秒50、100m、10秒07、200m、20秒66。95年、薬物使用で3ヶ月競技出場停止。アサファに陸上競技を辞めるように薦めた。)の活躍も影響もあっただろう。父親も10秒4か5で走ったというし、父親、兄弟全員がスプリンターだった。

−兄弟、6人全員10秒台だったの?
パウエル−多分ね(微笑む)ナイジェル、ドノバンは確かだが、ほかの兄弟もみんな早かったね。今でも母親はぼくのレースを怖くて見ていられないらしいが・・・。

−陸上競技を本格的に始めた動機は?
パウエル−ぼくはBoys Championship(注:日本のインターハイに似た大会で、ジャマイカで最も熱狂的な全国陸上競技選手権大会)に出場したが、それほど注目を浴びるような活躍はしなかった。しかし、02年ぼくに目をつけたキングストン工科大学所属のステファン・フランシス・コーチの薦めでMVP(Maximizing Velocity and Power Track and Field Club)加入して、本格的な練習を始めました

−アメリカの大学から奨学金を受けたらしいが、ジャマイカに留まった理由は?
パウエル−ぼくはジャマイカが大好き。MVPのフランシス・コーチは、ぼくが19歳で10秒50で走った時、Uテック(キングストン工科大学)入学を勧めて声を掛けてくれた。アメリカ留学はとてもいい話だったがリスクも大きい。若いため、アメリカ留学で自分を失った悲劇的な例はここに無数に転がっている。急激に変わる生活環境、家族や友達と離れての生活は、それほど楽しいものではないと思っていた。最終的に家族で話して決断した結果、ジャマイカに残って2年間努力してみることにしたのです。

−あのUテックの合宿所に入ったのか?
パウエル−あそこに3年間いました。

−あなたの兄弟2人は不慮の事故にあったと聞いたが・・・?
パウエル−そうです。02年6月マイケルがNYタクシードライバーで仕事中、強盗に拳銃で撃たれて殺害された。ほぼ1年後の03年6月、ヴォーンがサッカーの試合中に突然ジョージアで死亡。家族は大変大きなショックを受けた。ある時、父親も侵入してきた泥棒に顎を打たれて命を落とすところだった。特に、2回目の事故のとき、あまりにも母親の衝撃は強かった。ぼくはパリ世界選手権大会を目の前にして、ショックで陸上競技を続ける気力を失った。本格的に陸上競技を始めたころドノバンが反対したが、こんどは両親のために陸上競技を続けることを薦めてくれた。ぼくの活躍が唯一、家族の明るい話題で絆を深く結びつけた。両親、家族全員のために競技を続け、家族に朗報を送ることが大切な使命だったんです。

2度めの9秒77は簡単だった

−ブレークしたのはいつですか?
パウエル−成長過程でいくつかの壁をそのつど越えなければならないと思います。最初の大きな転機は、04年6月12日, 初めて10秒の壁を破る、9秒99を記録した時かな?その後は簡単だった。これをきっかけに04年はサブテンを9回記録。自己ベストも案外スムースに9秒87まで伸ばすことができた。次が05年5月、シーズンの早い国内大会で軽く走ったら、予想以上に早い9秒84を記録した。調子が良かった。6月7日、小雨の降る寒いオストラヴァで9秒85で走った。あの夜、天気さえよければ世界新記録が出せたね。これで世界新記録は時間の問題だと感じた。6月14日、苦い経験のあるアテネ五輪会場で、モリス・グリーンも世界新記録を出したコースで、世界新記録を出したのは大変嬉しかった。未経験ゆえの五輪失敗、失望が少しでも埋め合わせができたと思った。

−今季2度も世界タイ記録を出した、これは史上初の快記録ですね。
パウエル−これでアテネの記録がフロックとは言われないのはイイ。

−記録を狙いましたか?
パウエル−ゲーステッドGPでは、まだ誰もサブ10を記録していなかったトラック。それほど調子が良いとは思わなかったし、あんなにリラックスして走って世界タイ記録が出るとは思わなかった。チューリッヒも記録を特に意識していなかった。

−わずか4年間の短期間で頂点に立った
パウエル−(笑ってうなずく)

−わかくて短期間にジャマイカのアイコンになったが?
パウエル−ぼくは常に控えめな態度、冷静、理知的に物事に対処するようにしつけられて育ってきました。ぼくが変わったのではなく、寄ってくる人たちにの態度が変わってきた。これからも自分が変わると思わない。国中、どこに行っても、ぼくがどんなスポーツをしているか知らなくても、陸上競技のなんの種目か知らなくても、人はぼくが誰だか知っている。今までのように気軽に外には行けなくなったし、いろんな形で人から『金』を要求される。人はぼくが常に勝つことを期待しているし、勝たなければ満足しないだろう。もちろん、悪いことばかりではない。いいこともたくさん起きた。アテネ五輪の数日間、100mレース期間中の一時的な平和なことだが、殺人事件が起きなかったらしい。ぼくの活躍がジャマイカのイメージ、アイディンティティを新しく作ることができれば幸いです。

―これまで意外に選手権に運がなかった。
パウエル−そうですね。(苦笑)(注:03年パリ世界選手権大会100m第2次予選で準決勝)最初の世界選手権でジョン・ドラモンド(注:かれは退場宣言を不服として、トラックに大の字に寝て抗議。進行を遅らせた)のトラブルでペースを乱されフライングして失格。アテネ五輪は経験不足で期待はずれの5位。ヘルシンキ世界選手権は故障で出場できなかった。(注:今年の3月、大英連邦大会100m準決勝でパウエルは、電光掲示板を見ながら走り隣のコースに踏み入れたが、走者を妨害していなかったので幸運にも失格を免れた。)大英連邦大会もミスったが(苦笑)優勝して良かった。普通に走ればよかったが、ナーバスになっちゃった。(苦笑)

―アテネ五輪から得たものは?
パウエル−大試合の経験不足だ。ライバルは潜在能力をすべて出して走っている。ぼくは準決勝(注:準決勝までのタイムは10秒07でトップ)で精力を使い果たして、決勝では疲れて思うように走れなかった。五輪決勝と世界選手権では、もうひとつのエクストラのギアーを保存しなければ勝てないことを知った。

ガタリンのドーピンはショックだった

−06年は最高のシーズンだったが、その秘密は?
パウエル−05年シーズン、身体の弱い部分が故障してフルシーズンが走れなかった。その部分を強化練習をしてきた効果が、全く故障がなく満足する結果を得たと思います。

−欧州遠征基地はイタリアですね。
パウエル−今季、ローマからベニスから東に40kmのリニアノ・サビアドレという町に移った。

−遠征時の調子維持はどのようにしてしますか?
パウエル−慣れてきたとはいえ、外国遠征はホームシックに掛ることが多い。空の旅、スタジアム,練習,ホテルなどがめまぐるしく変わる。自分がどこにいるのかもわからないときがある。。外国遠征の時は、なるべくチームメイトと一緒に行動するようにしている。

−来年の目標は大阪世界選手権優勝と世界記録更新ですか?
パウエル−そうですね。07年の目標は世界選手権と世界新記録。面白いレースを期待してください。

−また、車のナンバープレートを変えなければならない。
パウエル−なんども変えたいですね(笑う)

−あなたのポテンシャルは?
パウエル−まだ、伸びしろがあると思います。9秒75はいつでも出せるような気がしますが、すべてのコンディションが整えば9秒68で行ける自信があります。

−ジャマイカ国際招待レースで19秒90で走っているが、来季200mに挑戦する予定は?
パウエル−200mはあんまり好きではないので走らないと思う。(マネージャーはこのときの走りを「コーナーを軽く走り、最後の20mを流してあの記録が出た。この種目でも世界新記録の可能性がある」と、付け加えた。)

−ガタウリンのドーピン発覚をどのように受けた止めましたか?
パウエル−本当にショックだった。失望した。ガタリンにドーピング問題を起こして貰いたくなかった。2人の世界記録保持者対決は史上初のこと。世界中の人たちも期待していたのに・・・、残念です。

−ドーピングテストは年間何回ぐらい受けているか?
パウエル−ほとんど毎回のレースです。年間にすると約15から20回は受けている。何度やっても同じ結果だろうが、これも仕方ない宿命だね。早く走るための「薬」は全く必要ではない。ぼくの言葉を信用してください。ぼくは断然、薬物は使用していない!!

−ジャマイカ、アメリカスプリンターの違いがありますか?
パウエル−アメリカ選手はとにかく筋肉マンだ!ぼくはジャマイカに止まり、ジャマイカの食べ物を食べ、芝生トラックで練習、生まれ持った才能と努力で世界と戦えると信じている。また、アメリカ選手はもっと純粋に競技をエンジョイすべきだ。

−コーチに何度も取材をすっぽかされたが、どんなタイプのコーチですか?
パウエル−コーチは非常に厳格だ。練習をサボったりすれば大変なこと。コーチは練習をサボった言い訳を聞いてくれるが、正当な理由がないと大変だ。こと練習に関しては非常に厳格で妥協を認めない指導者。ぼくがここにきた最初の日から、常にぼくの才能を信じて厳しいが最適な指導をしてくれる。

ジャマイカの強さの秘密は「芝生」トラックにある?

−MVPは大学生のクラブですか?
パウエル−トラックは学校のものだが、運営費は出ていないと思う。

―練習は「芝生」トラック、特別な利点があるのですか?
パウエル−われわれもUテックの芝生のトラックが練習場(注:1周290mらしいが、ラインも引いてなく、表面はかなりデコボコだ)だが、特別な利点があるかどうか知らない。ジャマイカはどこでも「芝生」トラックがある。(注:全国に4ヶ所の全天候トラックがあるだけ)スパイクはトラックシーズンの数ヶ月前から使用するだけです。

−シーズン中,大学は休学ですか?
パウエル−休学はしていませんが、海外遠征で学業は遅れがちなのは仕方がない。シーズンオフに戻り遅れた分を取り戻すようにしているが、慣れるまでキツイ!あと2年半大学が残っています。

−兄のナイジェルと音楽事業に進出したとか?
パウエル−ぼくらは以前から音楽に興味を持っていた。ナイジェルが「CK5」と呼ばれるロックグループのマネージメント業を始めた。陸上競技キャリアが終わってから人に使われることなく自分の仕事を持ちたい。今は将来なにをしたいかわからないが、現在は不動産業に友人を通して投資をしている。

ところで、横浜で一体なにが起きたの?
パウエル−まさかと思ったが、よくわかんない。ほかのレースでもファウルがあったし、あのコールは少し長すぎたと感じた。手が少し揺れただけ。あの大会は選手権大会ではない。観客だって、TV視聴者だって世界記録保持者の走りを見たかっただろうと思う。野暮な判定ですべてが台無しさ。実は、世界新記録を出せる自信があったんだ!(注:マネージャーがこう付け加えてくれた。「レース1週間前から、ヤル気満々で世界新記録を狙い調整してきた。競技場は高速トラックだと知っていたし、風向きも良かった。ニッサンが世界新記録を出せば車の提供があったので、事前にショールームで品定めをしてきた。車1台、貰い損ねた。」)

−来季を楽しみにしています。
パウエル−大阪を楽しみに。

(06年月刊陸上競技誌12月号掲載)

 
(望月次朗)

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