2010年8月29日、デヴィッド・ルディシャ(ケニア)は、ベルリンで1分41秒09、その一週間前にはリエティで1分41秒01を記録し、それまでウィルソン・キプケター(デンマーク)が持っていた男子800m世界記録1分41秒24(1997年8月24日、ケルンで樹立)を1週間で2度立て続けに更新した。その年、世界陸連は文句なしに年間最優秀選手に選出する。テグ世界選手権で念願の初優勝を果たした23歳の若者だ。ソウル五輪においてポール・エレングが男子800mでケニア初となる五輪優勝を果たしたが、世界選手権、世界記録を逃している。続く、ビリー・コンチェラ、ウィリアム・タヌイらが世界選手権で優勝したものの、世界記録更新、五輪とは縁がなかった。ケニア生まれのキプケターは世界選手権3連覇、世界記録を樹立したが、五輪は2、3位が最高位だった。近年、800mで五輪、世界選手権、世界記録の3冠を達成したケニア選手は存在しない。ルディシャは悲願のロンドン五輪優勝で史上初の3冠王を虎視眈々と狙う。昨年のクリスマス前、長距離王国の「首都」と呼ばれるケニア西部のエルドレット市西側の一角、大物選手の成功の「証し」の高級住宅が並ぶ地区に彼の新居が完成した。イブラヒム・フサイン、モーゼズ・タヌイ、パトリック・サングらの邸宅、ジェフレイ・ムタイもルディシャとほぼ同じころ新居を完成している。ルディシャの稀有な才能は、メキシコ五輪4x400mのアンカーで銀メダリスの父親ダニエルから受け継ぎ、いわば生まれ持ってのサラブレッドだ。ロンドン五輪優勝を目指して、今期の抱負を語る。
オコンネル・コーチとの出会い
―シーズン初めに足の故障で調整が遅れたが、最終的に最大の目標であった世界選手権に初優勝した。昨季のシーズンを振り返っての感想は。
ルディシャ―全体的に見たら、2年前のベルリン世界選手権は準決勝で落ちたことと比べれば、念願の世界選手権初優勝を達成し記録もリエティで1分41秒33、わずか世界記録に0.32遅れただけの好記録を出すことができて非常に満足したシーズンとなった。シーズン初めから世界記録保持者の重圧が予期しないほど強かった。誰もがぼくが勝つことを期待した。世界選手権決勝で最初にゴールラインを切った瞬間、勝ってほっとした。正直言って、4,5月足の故障で練習できなかったのでシーズン参戦がだいぶ遅れた。6月になってスピード練習を始めたがそのための基礎練習がないままだったから、故障の再発を少し心配したが、その後はなにごともなかったのは良かった。
―シーズン最後のレースで無敗記録を破られたが。
ルディシャ―ミラノで連続無敗記録26レース(予選を含めると34レース)が止まってしまったが、世界記録保持者であろうがその日の気象状況、コンディションによって負けるという証明のようなものだ。急に振った寒い雨で、ウォームアップも7,8分程度でスタート。準備不足でレースできる状態からほど遠かった。ベルリン世界選手権大会準決勝も、同じように気象状況は良くなかった。だからと言って、若いエチオピアのモハメッド・アマン(17歳)の勝利をけなすものではありません。
―どのような家庭背景に育ったか説明してください。
ルディシャ―キルゴリスが生まれ育った町。近くに世界的な有名なマサイマラ自然公園があります。貧しくもなく金持ちでもない、ごく平均的な家庭に育った。父親はメキシコ五輪4x400mで銀メダルを獲得した時のアンカーを走ったメンバー。あのころの陸上競技選手は特別な扱いも受けず、選手引退後は小学校校長、母親も同じ学校の教師だった。幼いころから父親の勧めで陸上競技を始め、かれの指導と強い影響を受け、大きな目標としてきました。ある時、父親が初めて銀メダルを見せてくれた瞬間、父親がぼくのアイドル、ヒーローになりました。それ以来、ぼくは父親を目標にして陸上競技を始めました。子供のころから走るのは大好きで、遊び仲間と一緒に争ったものです。
―あなたを発掘したのは世界的な陸上選手を輩出したイテン町の聖フランシス・キモロン校のコーチ。どのような出会いだったのか。
ルディシャ―かれとの出会いは、2003年ぼくがまだ16歳のときの大会だった。あのころは200,400m、リレーを走り、時には10種目もやっていました。1年後、オコンネル・コーチがイテンで開催された聖フランシス・キモロン中学校の春合宿に呼んでくれたので参加。1か月のトレーニングを消化したころ、ダートトラックで1分50秒を切るまでに成長しました。そこでコーチが学校内の宿舎に入居するように言ってくれたので、2008年に卒業するまでいました。
―本格的な練習を始めてわずか2年、06年世界ジュニアで優勝した。
ルディシャ―そうですが、その前の学校でも走っていたから、2年だけではありません。
―なにか特別な練習をしたのか。
ルディシャ―特別かどうか知らないが、コーチは非常に基本的な体の動かし方、各選手の個性に合わせた練習プログラムの作成を選手と徹底的に話し合って、選手が最も納得する方法をとっていますね。
―ベルリン世界選手権は決勝進出ならず、どんな経験を得たか。
ルディシャ―決勝進出はできる自信があったが、2つの理由で準決勝を敗退した。まず、小雨が降るような肌寒い気象状況だ。寒さは最も苦手!それとウォーミングアップが満足にできなかった。身体が温まらなかった。2位になった同僚のアルフレッド・イェゴがいるので、寒い、ウォーミングアップが満足にできなかったなんて言い訳に聞こえるだろうが…、準決勝第3レースで3位に入ったが、寒くて記録は伸びず1分45秒40だった。実力もあの状況ならあんなものだったかもしれない。まだ国際試合の経験が少ないサミー・タングイ(24歳)がローザンヌ大会でペースメーカーだった。かれの走りを非常に気に入った。身長が高く、頑丈な印象を与えるボディ、かれのストライドがぼくと同じぐらいだ。その時彼に、数年後世界記録に挑戦するとき、ぜひあなたにペースメーカーになって欲しいと頼んだ。2010年からタングイが練習パートナー、ペースメーカー、イテンに滞在するときにはルームメートになるほど親密になった。
―しかし、タングイはあまり距離を引っ張れない。
ルディシャ―確かに言われるようにタングイは450m以上の距離を走れないが、ぼくにとっては十分だと思っている。500か550m無理に走ってペースダウンしてぼくの走るリズムを壊されるよりましだね。世界記録を最初に出したベルリンの1週目のタングイのラップは、48秒8,9だった。リエティは48秒60と早かった。昨年シドニーで400mを走りテストしてみると、45秒50の自己新記録だった。スピードがついてきたが、いまだにペースが48秒7で入り後半52秒30ぐらいがベストなのか自信がないのが正直なところです。今季、最初の400mをもう少し遅く入って、後半の走りにどのような影響が出るかテストしてみるつもりです。
―2010年、ベルリン、リヒエティで7日間2度の世界新記録を更新した。あのマジックウィークの経験と感想は。
ルディシャ―それまでのウィルソン・キプケターの記録は13年間も破られなかった偉大なものだっただけに、精神的にも非常に難しかった。最初の世界新記録更新は、もちろん初めての経験で内外からのプレッシャーが凄かった。死に物狂いで全力を尽くしてゴールした。リエティは、すでに世界新記録はポケットに入っていたし、ベルリンと比較してかなりリラックスしてレースに臨んだのが幸いした。
―その年、ダイヤモンドリーグでも総合優勝した。
ルディシャ―もし、あの時の調子なら金曜日にブリュッセルDLで走っていなかったら、もっとリエティでフレッシュな状態で走れたと思うので1分41秒を切ったかもしれない。(笑う)
―キプケターはケニア生まれだがデンマーク国籍なので、ケニア選手による800m世界記録は初めて。国を挙げての大歓迎が凄かったと聞いている。
ルディシャ―ほんと、凄かった!あんなに喜んでくれるとは!ナイロビ空港に到着した瞬間から生まれ故郷に帰ってからも大歓迎を受けた。あんな町を挙げての大騒ぎは初めての経験らしい。お祝いに来た人たちに食事を振る舞うために牛を20頭準備した。警察の発表によると、なんと6000人の人たちが祝福に駆け付けたとか。その後、2010年世界陸連最優秀選手の栄誉を受けた時も、帰国後にお祭り騒ぎがあった。しかし、テグ世界選手権はケニア選手が大量のメダルを獲得したのでそれほどの騒ぎはなかった。
―ケニアスポーツマンのニューヒーローになった感想は。
ルディシャ―人の見る目が変わってきた。有名税と思っているが、これまでの静かな生活もかなり変わってきた。練習には100%の集中力を必要とする。しなければ意味がない。ターゲットを失う危険性もある。有名になったことは事実で、今さらこれを打ち消すことは不可能なことだ。収入も2年前より多くなった。しかし、これらのことはなんとかうまくやってゆくより仕方ない。妻と一人娘のチャリンと故郷のキルゴリスではなく、エルドレットに住むことはいろんなことで助かる。故郷に住めば町中の人たちがいろんな手を使ってものをねだってくるから休む暇もないんだ。
―新居に移ったとか。
ルディシャ―12月半ばに新居に移った。これまでは居間、寝室だけの小さな家だったが、娘も大きくなるので家を建てることを考えていた。ぼくはベルリン世界選手権で失敗しているので収入はそれほどではなかった。ここ2年間で収入がかなり良くなっただけ。それまでは家の購入なんかとても考えられなかった。
―今年最大のターゲットは、言うまでもなくロンドン五輪優勝だろうが、どのような準備を考えているか。
ルディシャ―まず、室内レース出場は、世界選手権であろうが全く予定にない。過去2年間のシーズン開幕前の準備は、非常にうまくいっているので準備プログラムなどを変える考えは持っていない。ということはシーズン開幕をオーストラリアで数レース、最初のレースは2月末シドニーで走る予定です。2010年は世界記録に挑戦した。11年は世界選手権優勝が目的だった。今年は10,11年を混合するような練習が必要だと思う。世界中の選手が躍起になって五輪を目指してくる。五輪は特別なものだ。ロンドン五輪決勝を含む3レースに疲労なく対応できるスピード、パワフルな能力を高めなければ勝てない。とにかく一瞬の油断が勝敗を決着するだろう。五輪優勝は紛れもなくぼくの今年最大のターゲットだが、キャリアの中でも最初で最後と思ってかからなければと考えている。次の2016年五輪に、果たしてぼくの力で優勝のチャンスがあると断言できる人はいないだろう。もし、五輪優勝の夢が叶ったら、ぼくの理想の選手ポール・エレンゲのソウル五輪優勝、ビリー・コンチェラの世界選手権2連覇、ウィルソン・キプケターの世界記録らと肩を並べることができるだろうと思う。
―さらに世界新記録更新は。
ルディシャ―その後はもっと早く走ることに専念する。遅かれ早かれ、少なくとも1分40秒5に行くだろうと想像できる。記録に向かってがんばります。
コルム・オコンネルコーチ談
1976年アイルランドから聖フランシス・キモロン学校に赴任。陸上競技のズブの素人から世界的な中・長距離コーチになる。最初の五輪優勝者であるソウル男子1500mの金メダリスト、ピーター・ロノをはじめ、これまで20名の五輪代表選手を育てた実績がある。イブラヒム・フサイン、ウィルソン・キプケター、アスベル・キプロップ、アイザック・ソンゴック、オーガスティン・チョゲ、ジャネット・ジェプコスゲイ、リネット・マサイ、リディア・チェロメイ、メルシー・チェロノらを発掘、世界的な選手に育て上げた。現在63歳。ルディシャのこれまでコーチしてきた選手との違いをこう語る。「ルディシャはトップ選手のビデオを熱心に研究する勉強家。練習もコーチに言われたから盲目的に練習プログラムを消化するのではなく、自分の理解と納得がゆくまで努力する選手。理想的な中距離選手向きの身体だ。五輪後、故障もなく練習を続けることができたら、数年後に1分40秒を切る可能性を秘めているランナーと言えよう。」