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ハイレ・ゲブレセラシエの「ランニング」哲学

ハイレ・ゲブレセラシエ(35歳)とかれの家族と一緒に2週間にわたって日常生活を体験した。今回のエチオピア取材は、個人的な興味でモノクロ写真撮影が目的だった。スポーツとは全く関係がないシロモノ。ほぼ同じころ、恒例の「アフリカ会議」が開催された。市内は深刻なホテル不足のため全く部屋が予約できなかった。最初の数日はホテルに滞在したが、その後は知人宅を転々とするジプシー生活だった。幸運だったのは、偶然にも、00年五輪5000m優勝者のミリオン・ウォルディにアムステルダム空港で会い、同じフライトでアディスに飛んできた。事情を説明すると、かれは気前良く自宅の1室を3泊貸してくれ、さらに知人の家にも数日厄介になることができた。その後、ハイレ・ゲブレセラシェに奨められるまま、かれの好意に甘えてかれの自宅に滞在した。ハイレの日常生活を目の当たりにして、なんらかの刺激になると思いまとめたものがこの記事です。






日本男子マラソン沈滞ムードからの脱出

日本とエチオピアの国情、先進国と世界の最貧国のひとつ、文化背景が大きく異なるが、伝統的な共通点がひとつある。それは両国とも自他共に認める長距離、マラソンの伝統国だ。しかし、日本の場合、女子選手が世界的に目覚しい活躍をしているが、男子長距離・マラソン選手の実力は、エチオピアと比較するのも失礼なほど歴然としている。日本男子10000m28分台選手は、世界でも有数な100人をゆうに越える数いるが、世界は26分台で勝負する時代に、27分台後半で走れるのは毎年数名しかいない。日本選手のモチベーションは、箱根駅伝、実業団駅伝出場がすべてではないだろうと思うが、横並びの「中流志向」で満足しているのか、「どんぐりの背比べ」の団子状態から脱皮できない。また、男子選手は高地練習が女子よりはるかに少ないのも不思議だ。現状維持が精一杯なのか、 それ以上の努力を惜しむのか、満足しているのか、出る釘が打たれるのが怖いのか、いずれも重症が続いて、暗い長いトンネルの出口が見えない。男子マラソン記録が9、10分台では、悲しいかなレース前から事故でも起きない限り、かれらとは勝負にならないのが目に見えている。「28分台一流思考」は、程々にしてもらいたい。

ここにハイレの日常生活、なにげない会話をまとめてみた。なんらかの刺激になれば望外の喜びだ。

超過密な連日のスケジュール

ハイレの日課の定番を紹介しよう。以下のスケジュールは2週間の滞在中一度も変わることがなかった。

・エチオピア選手は、朝練をメインにしている。ハイレは週7回、1日2回の練習。ただし、日曜日は朝練のみ。ハイレは判を押したように起床時間は05:45から6時の間になる。外はまだ暗い。

・紅茶、一切れのパンなどで軽い朝食をとる。

・06:15、車でナショナルチームコーチの指定場所に行く。練習場所はその日のプログラムによって違う。日によっては、起伏のある裏山を一人で走ることもある。

・ある朝練は、「ビルトアップ」だったこともあるが、高地2400〜3200mの不整地を2〜2時間半走のメニューがだった。ハイレ、トラ(シドニー五輪マラソン3位)、メズゲブ(シドニー五輪10000m3位)らが先頭で若手を引っ張る。

・時には朝練を友達と一緒か単独で裏山を走る。家に帰ってきてシャワーを浴び、用意された朝食を摂ってから車で事務所に向かう。食事中、車中でハイレが携帯電話から開放されることはない。

・練習場所によっては、車でそのまま自営のフィットネスクラブでシャワー、マッサージをしながら、かれの兄が経営するカフェから朝食を取り寄せて食べる。

・9時半から12時過ぎまで8階の社長室で勤務。会社の名は「ハイレ・アレム(奥さんの名前)・インターナショナル」と呼ばれる。2人個別の社長室が廊下を隔ててある。ハイレは男女の秘書が2人別室に控えている。出社すると、すでに面会人が部屋の外に待機している。

・昼飯はビジネスランチがない限り、二人は7km先の山の上の邸宅に帰って昼食を通る。実力だけではない、日本大使、アメリカ大使、ハーバード大学の教授、政治家から招待されるほど、この国では絶大な人気者だ。

・3時半か4時になると、必ず仕事を終える。階下のフィットネスクラブでの練習がまた凄い。マラソン選手がこんなに器具を使っての補助運動をするとは思わなかった。脚を怪我してから、ここ数年間かなりハードな器具を使用して負荷の少ない補助運動での筋力強化が最適とか。トレッドミルで、ハーフマラソン60分ジャストの高速で走る。自転車も、メチャクチャに速いスピードで飛ばす。多分、性格なのだろう、器具を使っての練習も、統一性がないハチャメチャで、休まず2時間タップリめまぐるしく身体を動かす。

・または、単独か仲間を誘ってクロカン走を行う。ハイレは17歳ごろから本格的な長距離練習を始めている。長期に渡って、驚異的に高いモチベーションの衰えが見えないのは凄いことだ。

・夕食は、家族が全員揃う7時半ごろになる。ある日ジムの練習後、かれは帰宅前にスーパーマーケットで買い物。

−あなたはアテネ五輪で叔母のツルと一緒に10000mを走って2位。あのレースの印象はどうでしたか?
エジ・夕食後、個人的に雇っているマッサーが入念に身体のケアをする。

・夜の携帯電話は比較的に少ないが、それでも必ずある。多くの場合、ハイレは友人、知人の問題を聞いてやると言う。

・TVのニュースなどを見たりして、ベッドに向かうのは9時半から10時前だ。

才能を縛らず、可能性を無限に広げることが大切だ

これだけ過密なスケジュールをこなすトップランナーが世界に果たして存在するだろうか。ランナーとして、ビジネスマンとして、ふたつの全く異質な世界で責任を持ち続けるのは並大抵のことではない。が、平然として毎日をこなしている。ある夜、欧州で開催された室内競技を一緒にTV観戦。ハイレは「人はぼくが北京五輪後に競技から引退すると考えているだろうが、北京どころかロンドン五輪、その次の五輪まで競技を続けたい。スプリンターのオッティは、今年で46歳だろう?彼女の年まで、ぼくはあと10年以上は競技を続けられるよ。マモだってミュンヘン五輪マラソンで3位になったのは、40歳ぐらいだったと言うが、実際はもっと年だったろうな。実際の年齢なんかどうでも良いんだ。多くの田舎で生まれたエチオピア人のように、ぼくも正確な生年月日は分かっていない。年齢なんて心理的なものさ。自分を信じて可能性を広げることが大切だよ。マラソンはトラックと比較すれば、さほど練習、調整が難しいとは思わない。ぼくもマラソン走方になってきた。ベルリンで優勝した時、多くの人たちは2ヵ月後の福岡マラソン出場を懸念したが・・・、結果はあの通りさ。福岡マラソンは、主催者から最高のもてなしを受けた。楽なレースだったよ。今後、短いロードレースに出場することは止め、マラソンだけに絞って、年2回か3回レースをこなそうと思う。故障さえしなければあと10、15年も走ることができるからね。」と、いかにも走ることが楽しそうな笑顔をみせた。

ハイレはエチオピアで最も有名な人物だろう。言うまでもなく「皇帝」の異名を授かり、史上最強トラック選手と呼ばれている。ハイレと2週間の長期に渡って同じ屋根の下で生活したような経験は、これまでになかった。この期間中、改めてかれの競技に対する情熱、モチベーションの高さ、1日2回の練習(ただし、日曜日の夕方を除く)、週7日間の厳しいストイックなまで自らに厳しい練習(かれ自身は当たり前だというが・・・。)など、やはり日常生活で並大抵の努力ではない。少なくとも、日常生活パターンは、ハイレが地方から首都アディスに16歳で兄を頼って出てきてから変わりがないという。また、過去10年間、ハイレのビジネスの全貌は正確に掌握していないが、アディスと地方都市でビジネスを展開している。12階建てビル4棟、ホテル、3箇所の学校経営、スーパーマーケット、多種のビジネスを経営、従業員400人を抱える企業の社長だ。家庭を大切にする4児の父親として、過密なスケジュールを精力的にこなしているのだ。そして、今春4月22日のロンドンマラソンに向けて調整中だ。

モチベーションを強く持つこと

ハイレはこう言う。「オレがプロ選手になったのは日本だよ!18歳で初の代表選手の一員として海外レース出場したのは千葉駅伝。その時、陸上競技で始めて、しかも生まれて初めて現金$900を貰った。あんな巨額の現金を手にしたのは初めて!びっくりしたね!(笑う) 帰国してから家族に『陸上競技は金になる。これでオレの生活は安泰さ!』と、大見得を切ったものだよ。好きな陸上競技をしながら金を貰えるなんて、こんな素晴らしいことはない。陸上競技は個人競技だ。誰よりも強くなりたい、ハード練習をすれば結果はおのずから付いてくる。すべてが自分にかえってくると思った。高いモチベーションを持って、階段を上がるように地道な努力して自力をつけることだ。多くの場合、運もあろうが選手自信のモチベーションの置き方が、将来を左右すると言っても過言ではない。」

「ぼくは10兄弟だった。あるとき父親に『貧乏なのになぜ子供をたくさん産んだのか』と聞いたことがある。するとこんな返答があった。『子供は多ければそれだけ農家の労力として使える。3歳以上になれば家畜の世話ができるし、10歳ぐらいになれば畑仕事ができる。子供は重要な働き手だよ。』実際、ぼくらは朝早くから夕方までよく働いたさ。ぼくの子供たちはスポーツ選手として、まず大成しないだろうね。(笑う) この子達はハングリー精神がゼロ! 恵まれすぎている。目の前に面白いようなものがたくさんあり過ぎるのも、不幸かもしれない。ぼくと育った環境が全く違う。田舎ではみんなが貧しかった。ぼくがこの子達の年齢のころ、車に乗ったこともなければ、学校に行くにも片道6kmぐらいの距離を歩かなければ行けなかった。高地で脚、呼吸器官も日常生活の中で鍛えられながら育ってきた。アベベ・ビキラ、ウォルディ・マモらの先駆者を始め、エチオピアが長距離選手を生み続ける背景、強さの秘密のひとつだと思っている。だからハングリー精神は旺盛だ。エチオピア選手の多くは、首都アディス出身者は少なく田舎出身者が多いのも、「走る」ことは貧しさから「脱出」できるわずかな可能性のひとつでもある。日本のような先進国は、ひとつのものに全力を掛けて集中できることが難しい環境だろうが、それを言っても始まらない。どこの国でもいろんな問題を抱えながらも、自分を信じてベストを尽くすことさ。」

ハイレの存在は国家的な「シンボル」だ

ある朝、ハイレの朝練に同行した。お茶を飲んでから06:20、車で郊外の集合場所に向かった。すでに大半のナショナルマラソンチ選手が陸連の大型バス、トップ選手は自家用車を駆って4人のコ−チと共に、総勢30人以上集まっていた。若い選手に混じって、シドニー五輪マラソン3位のトラ、シドニー五輪10000m3位のメズゲベ、G・トラ、女子ではアデレらの知った顔があった。外はまだ暗いが、薄紙をはがすように次第に明るくなった。軽いストレッチング後、一斉に、山に向かって走り出した。どこを走るのか見当もつかないが、コーチが「90分走」と説明してくれた。昨夜の大雨は、アフリカ特有で、乾燥するとパサパサで埃が立つが、雨が降ると一瞬にして、粘土状になるとても始末が悪い。たちまちシューズが重くなる。

エチオピア選手は、ファティマ・ロバのようにイスラム教徒もいるが、多くの選手はオーソドックス、コプト・キリスト教徒で信心深い。ハイレいわく『市内は500m間隔で教会がある。』ミリオン・ウォルディは、教会近くを車で通過するたびに胸で十字を切る。ケネニサ・ベケレ、メサラット・ディファーらのように、ゴールライン上で胸で十字を切る選手もいる。どの選手の家にも大きな宗教画、祭壇が必ず設けられている。ハイレ、ツル、アベレらは、五輪優勝メダルを教会に寄付したのも、「神」に勝利を授かった表れだと言う。「宗教」は精神的な大きな支えでもある。

しかし、この国も一筋縄では行かない難しさがある。25年間のメンギュスト独裁政権の恐慌政策の名残か、人は猜疑心、やっかみが強くなかなか難しい国民だ。深く接するには、ストレートな態度で長い時間が必要になる。新政府になってから、一挙に、自由マーケット政策が活気を取り戻し繁栄を続けているが、地方と首都の差は大きい。国民平均収入が1日1ドル程度の、世界最貧国のひとつでもあるこの国に、1泊250ドルのホテルがある。高い壁の外には物乞いがたむろしているのが現実だ。いやおうなしに「シュール」な世界だ。

「ハイレ宮殿」は4年前に完成された。市内を一望できる山の中腹に建設された敷地3000平米、4階建て室内2000平米の豪邸だ。すべての材料をイタリアから取り寄せたとか。巨大なソファー3点セットが9箇所、寝室12部屋?与えられたぼくの部屋からダイニングまでは少なくとも30mは歩く。小さなプールもある。ハイレはスチュットガルト、ヨテボリ世界選手権優勝で獲得したベンツ2台と子供たちの送り迎えのベンツがある。子供は私立に通学、年間授業料は一人数1000ドル。巨大なTVアンテナは世界のスポーツ放映が見れる。ハイレは「走って」巨額の金を稼いできた。かつてのビキラ、マモ、イフターらが慕われたように、ハイレの存在は生きた国民的な「シンボル」だ。そのことをハイレに尋ねると、ただ笑って返答しないが、ハイレは切手にもなったし、ハリウッド製作の伝記映画、本、史上最強長距離・マラソン選手、著名人、億万長者、ビジネスマンなど、すべてが国民羨望人物の巨大な「イメージ」が確立している。若い世代に与える影響力、モチベーションン高揚に駆り立てられる。数年前、ハイレの走る姿が市内のビルの壁に「イチャレル」(なせばなる!)と、国家自立、復興キャンペーンにかれのイメージを使っていた。未だに80%以上が原始的な農業に従事、国民の大半が満足に読み書きもできない。田舎は電気、舗装道路がもないところはざらにある。水道は20%しか普及していない国だ。ハイレの豪邸から一歩外の通りに出ると、そこには別世界がある。街路樹の陰で、物乞いが昼寝をしている脇を高級車が通過する。この「天国と地獄」ぐらいの格差の現実こそ、エチオピア、ケニアらの選手を高いモチベーション、「貧困からの脱出」に駆り立てるものだ。

ハイレが若い衆の先頭に立って帰ってきた。シューズには重く土が付いたまま走っている。なんとも凄い馬力だ。ハイレは「不整地?ドロ?走るところを構っちゃあいられないよ。」と、笑った。

伝統継承は、非常に難しいが大切なことだ

アディスの南、聖ジョセフ教会の墓地の一角に、あの「裸足の王様」と呼ばれたアベベ・ビキラの栄光を称えた銅像がある。この銅像は、資産家のパン屋さんが自費で建立したもの。10年ぐらい前、ハイレを同行してアベベの銅像と一緒に写真を撮ったことがある。シドニー五輪マラソン優勝者のゲザヘンゲ・アベラもこの銅像の前に連れてきて撮った。アベベの銅像の側に、メキシコ五輪マラソンで君原と激戦を演じた末、優勝した故ワルディ・マモの銅像が新設してあった。かれの晩年、かれの自宅などで数日話したこともあるが、その後、悲劇的な人生を終えた。ハイレが実情を説明してくれた。「ビキラ像の近くにマモ銅像を建立することに、アベベ未亡人が猛反対した。(注:マモはメンギュスト政権時代の罪状、殺人罪で93年投獄された。02年刑期6年が採決されたが、すでに9年間投獄されたので直ちに釈放されたが、数ヵ月後に死亡。)仲介に立ったぼくは、エチオピアの長距離伝統は、かれら2人から始まったと説得。長い討論の末、やっとマモ銅像があそこに安置されたのさ。」と、エピソードを披露してくれた。ハイレは伝統とは「継続」の難しさにあると説く。「先駆者」の功績は、現在のエチオピア長距離の基礎になっているのだ。先人に負けじと努力をするのがわれわれ世代の義務なんだよ。」

アテネ五輪10000m決勝レースを覚えている人も多いだろう。ハイレはアキレス腱を痛め、大会直前まで出場を危ぶまれていた。かれは「幸い、ぼくは五輪2連勝できた。その2度とも運が良かった。アテネは若いケネニサ・ベケレ、シレシ・シヒネらが急成長してきた。全力を尽くしてエチオピア選手による五輪10000m3連勝を獲得するのが至上目的だった。五輪経験者のぼくが若い人を引っ張って、エチオピア選手が勝てる最大の努力をすることだった。あのレースは世代交代さ。(苦笑) エチオピア選手が伝統を死守して1,2,5位だった。継続は非常に難しいが、それが各世代で強い選手を生む原動力だ。」という。

ハイレはある日突然「まだ、マラソン世界記録挑戦は諦めたわけではないが、もし、このようにビジネスを広げなかったら、マラソン世界新記録を樹立することは、それほど難しいことではない。多分、ポールには悪いが、現世界記録を数分短縮できる自信があるね。しかし、今や練習だけに専念することができない環境にいる。どちらもそれぞれ面白いね。」と言って一笑した。続けて「好きな競技なら失敗を恐れず、自分を信じて思い切って練習、レースに掛けることだ。迷ったらダメだ。スポーツに近道はないよ。」と結んだ。

 
(望月次朗)

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