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1年半で世界のトップクラスに躍り出た、ツゲイ・ケベデ

貧困から脱出したのはマラソンのお陰

マラソン5回目のツエガイ・ケベデ(エチオピア、21歳)が、福岡マラソンを2時間6分10秒の大会新記録で優勝。2位の入船敏(カネボウ)に3分13秒、距離にして1100m以上の大差をつけた。1999年の東京でゲルト・タイス(南ア)が記録した2時間6分33秒を大きく上回り、日本で行われたマラソンの最速タイムだ。

ハーフを64分02秒で通過。30kmでペースメーカーが離れると、ケベデが満を持したようにペースアップ。日本勢との差がたちまち開いた。世界との差を思い知らされた。と言ってもまだ6分台、記録的には高速とはいえない。現世界記録は2時間3分59秒だ。それでも再起をかけ、調子が良いといわれてきた日本トップ選手が一度も絡む場面がなく北京五輪に続く惨敗に終わった。

昨年11月半ば、ケベデが福岡マラソンに備えて出場した、高地2400mのアディス・アベバの北20km郊外で行われた20kmロードタイムトライアルなどを取材した。ケベデは一緒に走った2時間8分台の選手に大きく差をつけ60分だった。ケベデに福岡の抱負を訊くと、「自己新を狙いたいが、風と寒さが怖い」と笑った。ギタネ・テセマ(40歳。2時間12分台の元マラソン選手。エチオピア生まれのオランダ国籍。ゲタ・ワミと結婚1児の父親。)コーチは、「調子はパリや五輪前よりいい。35kmまで並走する選手がいれば5分台。独走なら6分台前半の自己新記録」と予測した。それがピシャリと的中した。初マラソンから1年半で五輪3位、一躍世界のトップクラスに踊りだした例は、エチオピアでも前例がないと言う。以下の記事は、ケベデ、コーチを福岡から帰国後に電話取材したものを含めてまとめた。

天井知らずの伸び盛り

ケベデのマラソンデビューは、07年の春。2400mの高地のアディス・アベバで2時間15分53分で優勝。その半年前まで、アディスから北へ約40kmのゲラレ村で、薪を拾って一束30〜50円で売りながら自己流で走っていた。13人兄弟の5番目とか。1日3度の食事にこと欠いた日もあったと言う。エチオピアは世界最貧国のひとつだ。田舎ではかれの家だけが特別ではない。身長156cm、体重49kgの小兵だが、「いつかはハイレのように!」と、大きな夢を抱いていた。2年前、ある人の口利きでテセマに紹介され、これをきっかけに「運」が回ってきた。育成選手として契約、本格的な指導を受けるとたちまちに頭角を表してきた。中東、オランダ、国内の短いロードレースで連勝した。

07年10月、アムステルダムで2時間8分16秒の自己新記録で8位。恒例の「Great Ethiopian Run」 と呼ばれる3万人が参加したアフリカ大陸最大の10kmロードレースがある。これは若手男女長距離選手の登竜門とみなされている。ケベデが圧勝。その半年後、だれもが予想しなかった08年パリで2時間6分35秒で優勝、周囲を驚かした。その余勢をかって、北京五輪で同僚のデリバ・メルガをスタジアム内のトラックで追い抜き3位。福岡に勝って、天井知らずの伸び盛りエチオピアの新星が誕生した。

−福岡は予想通りのタイムでしたね。
ケベデ−自己新記録が出たので満足です。(笑う)
テセマ−欲を言えば、前半、ペースメーカーがしっかりとイーブンペースで走って欲しかった。最初の5kmが15分そこそこで通過したが、10〜20kmで15分10秒、15分14秒とペースダウン。ハーフは64分02秒だった。前半のペースが30秒早くても良かった。もし、ライバルが35kmぐらいまで一緒だったら1分以上早かったね。

−後半はペースが上がったのは、記録狙いに行ったのか。
ケベデ−そうです。ハーフが64分通過だったので楽だった。30kmからは自分のペースで自己新記録を狙いました。前半のペースは、もう少し早くても良かったと思いますね。
テセマ−ハイレの世界記録に次ぐ、エチオピア2位の記録に不満はありません。

目的はプロランナー育成

−あなたが教えているクラブは、どのように運営されていますか。
テセマ−GSC(グローバル・スポーツ・コミュニケーション。オランダに本社を置く世界最大級のエージェント)が出費して5年前、ゲテ・ワミがマラソンに転向する機会に指導を始めたのがきっかけです。これまでエチオピアの伝統的な育成は、警察、刑務所、軍隊、銀行、セメント工場などのクラブが主力。世界選手権、五輪などの大会前に陸連主体の合宿で調整します。うちのクラブから北京五輪マラソン3位のツガイ・ケベデ(2時間6分10分)、4位デリア・メルガ(2時間6分38秒)、テサマ・アブシロ(2時間8分26秒)、フェイサ・デンバ(2時間8分台)、エシェツ・ウォンディム(ハーフ、60分01秒)、女子はマルガ・アサレ(2時間21分31秒)、ロベ・トラ(2時間24分35秒)、ディレ・ツネ(2時間24分40秒、メズネッシュ・ベケレ(2時間23分05秒)らの選手がいます。未だに陸連がわれわれを公認しようとしませんが、エチオピア最強クラブです。われわれの目的は、マラソンプロ選手育成のため。契約選手に合宿所、食事、移動に使用する車、小遣いなど支給。選手の実力に応じて、世界のロードレースに選手を送り込んでいます。

−なぜ、マラソン選手育成だけなのですか。
テセマ−トラックレースが非常に少ないし、選手数は飽和状態。10000mを27分そこそこの選手なら、出場料なしでもレース出場が難しいのが現状です。トラックで十分な収入を得ることのできる選手は、ケネニサ・ベケレのような一握りのトップ選手だけです。逆に、ロード選手は需要に対して、絶対的な選手数が少ない。特に、トップ女子選手の需要は大きいですね。

−マラソンにトラック経験、スピードは必要ないのですか。
テセマ−あるに越したことはありませんが、それほど重要とは思っていません。トラック経験がないゲザヘンゲ・アベラ(シドニー五輪マラソン優勝者)、ケベデ、デリア・メルガ(2時間6分38秒、北京五輪マラソン4位)、マーティン・レルらのケニア選手らも、トラック出身ではありません。一般的に、長年トラック経験を積んでからマラソン転向を奨めまが、これが必ずしも成功していません。時には、マラソン転向のタイミングを外してしまうことがあります。エチオピア選手、コーチらは、マラソンを怖がる風潮もありますね。マラソンはトラックの延長と考えるのもある面では正しいと思いますが、トラック出身選手は距離に対する考え、走り方など、ロードに対応しなければ大成しません。ハイレでさえマラソンに慣れるまで時間がかかりました。アベラ、ケベデらのように、マラソンに適正する選手であれば問題ないのです。わたしの育成条件のひとつに、他のコーチの指導経験がない選手だけを選んでチームに入れるということがあります。なぜかと言うと、おかしなマラソン既成概念を持たない、柔軟な思考ができる選手のほうが楽に指導をすることができるからです。

−トラックへの挑戦は。
ケベデ−ぼくはトラックには興味がありません。

薪を拾って自給自足

−ケベデとの出会いは。
テセマ−2年前、ある人から「郊外に強いのがいるので見てくれないか」と紹介があったのでテストした結果です。身長が小さいと思ったが、走りが大きいので合宿所に入れてたわけです。この時、一緒のレースで優勝したのが北京五輪で4位のデリバ・メルガ、2位がケベデでした。

−どんな気持ちだった。
ケベデ−ホント嬉しかった。(笑う)ぼくが学校で走り始めたのが01年、14歳のころ。本格的に仲間と一緒に走り出したのが04年です。「ハイレ・ゲブレセラシエ」のようになるのが夢でした。ぼくにとって、衣食住付きの合宿所に入って練習に集中できる環境は夢のよう。ぼくのように自己流で練習しながら夢を追うランナーは国内にゴマンといると思いますが、正式なクラブに加入できるのはごく一部に過ぎません。コーチから正規の指導を受けながら、3度の食事はもちろんのこと、衣食住が保障されて小遣い(1ヶ月約1000円)も支給されます。強くなれば外国の賞金レースに出場するチャンスが生まれ、出場料と賞金など獲得できます。

−自信はあったのですか。
ケベデ−どこまでやれるかわかりませんでしたが、失うものはなにもありません。とにかく、やるっきゃない!(笑う)

−合宿所に入る前の生活は。
ケベデ−父親は農業、絨毯を織っていますが、食べて行くのにやっとです。他の選手が貧困家庭に育ったといっても、ぼくより貧しい生活を送ってきた人も珍しいのでは。2年前、GSCチームの一員になる前、森から薪などを拾い集めて、一束30セント(30円未満)程度でマーケットで売っていました。パンとお茶を買うと一銭も残りません。1日1食で過ごしたことも珍しくはありません。田舎でまともな職探しは絶望的。(注:08年、少なくとも2000万円以上の収入があるとか)
テセマ−ケベデのような夢見るランナーはいっぱいいます。それにチャンスを与えるのがわたしの役目。わたしは育成選手発掘のため、時間があれば地方レースに顔を出すようにしています。

−ハイレのような素質を持っている若者が、田舎にはたくさんいるのですか。
テセマ−その可能性は高いと思います。エチオピアの田舎は、まだまだ文明生活のインフラストラクチャー、電気、水道、道路などの完備はされていません。主要道路を一歩外れると、歩くか馬に乗る以外に交通手段はありません。子供のころから必然的に歩行をしなければならない環境。ですから健脚なんですよ。

−ハイレはマラソンは「貧者」のスポーツといっていますが・・・。
テセマ−そうですね。車がなければ歩く、歩けば「脚」が自然に鍛えられる。車を使えば、脚は鈍りますよ。そして「夢」を追いかけるには「根性」も必要ですよ。

−基礎的な「脚」はできていたのですね。
ケベデ−ぼくはチームに入る前、14歳ごろから好きで仲間と一緒に時間走や距離走などで走っていたので、それほど大きなハンディキャップは感じませんでした。

マラソンで貧困からの脱出

−マラソンの活躍で生活が一変しましたね。
ケベデ−生活環境が一変したのは、賞金を得るようになってからではありません。チームに入った時です。衣食住の心配もなく練習に集中できる生活は、それ以前と比較すると、希望が膨れて天国のようなものです。

−福岡から帰国した時、国内反応はどうでしたか。
ケベデ−国内では静かなもの。同僚が喜んでくれただけで、他にはなにもありません。

−まだ、合宿所住まいですか。
ケベデ−もちろんです。当分、合宿所を出ることは考えていません。

−最初のマラソンで優勝した時の感想は。
ケベデ−最高の喜びです!ぼくが所属しているGSC は、当初、陸連が出場を認めてくれない。レース後、今度は軍隊の「ディフェス」クラブに強制的に入れようとしたんですが、拒否して現在に至ります。

−アムステルマラソンが海外最初のマラソンですか。
ケベデ−そうです。距離表示を見なかったので、アッと言う間にゴール。余裕を残して、何位かも知らずにレースが終わってしまいました。(笑う)

−07年Great Ethiopian Runで優勝、パリ、北京、福岡と走るたびに急速な進歩を遂げている背景は、安定した合宿生活ですか。
ケベデ−もちろんです!こんな恵まれた環境で練習に集中でき、コーチに従って努力すれば良い結果が出るのは当然です。Great Ethiopian Runに出場したのは、同じ日に予定していた海外レースがキャンセルになったからです。

−パリで優勝した結果で、五輪代表に決まったのですか。
ケベデ−そうです。まさか代表に選ばれるなんて、その半年前には夢でしたね。同僚のメルガもロンドンで好記録を出して、同じ時期に代表入りが決定。ホント、嬉しかった!

−五輪3位、レース前の予想は。
ケベデ−トップ7位には入る自信はありましたが、まさかメダル獲得するとは、ぼく自身も考えなかったことですから、運も良かったと思います。
テセマ−ケベデは今が伸び盛り。五輪前と比較すると、ハーフで59分10秒ぐらいかそれ以上に早くなったと思います。マラソンに必要なことは素質もさることながら、高いモチベーションで人一倍の努力することですね。 ケベデは強くなりたいひたむきな心、人一倍熱心に行う練習、ハングリー精神に支えられています。勝ったからと言って奢ることもなく、少しでも金ができると大きな車を乗り回すようなこともなく、地道な日常生活は変わりません。また、これは生まれ持った才能。かれは北京五輪で発揮したように、最後までレースを捨てず、クールに自分の身体に聞きながらレースの流れ読んで組み立てる能力を持っています。

−これまで快心のレースは。
ケベデ−レースは毎回コース、競争相手が変わります。ですから一概に比較できません。まだまだ習うことがいっぱいあります。

−マラソン世界記録への挑戦は。
ケベデ−まだまだ先のこと!いつかはチャレンジしたいと思っています。

−次回のレースはロンドンとか、北京五輪より難しいレース。
ケベデ−どんなレース展開になるか、スタートするまで予測がつきません。しっかり練習を消化して最高の調整で望みます。怖いような気もしますが、一度は挑戦、経験しなければならないものです。

−ベルリン世界選手権出場は。
ケベデ−わかりませんね。確かなのは、ロンドンマラソン出場だけです。

ロンドンマラソン。マーティン・レル、サミュエル・ワンジルらの世界の強豪を相手にどんな走りを見せるだろうか。ダークホース的な存在のケベデの走りに期待が膨らむ。

 
(09年月刊陸上競技1月号掲載)
(望月次朗)

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